前の2件 | -
『改革』は司法から
司法の改革
『改革』という言葉が蔓延する我が国。
しかし、なぜか『司法改革』という言葉はあまり聞かれない。
三権のうち「立法」「行政」の改革は声高に叫ばれるのに。
改革の必要がないほど、日本の司法は健全な状態だろうか。
「立法」や「行政」がたびたびの「改革」という声に
少なからず「改革」がなされたの比して、
「司法」は「改革」からは無縁であっただけに
改革されるべき多くの点がいまだに置き去りにされ、
司法は過去の遺物と化している。
時代の変革に取り残され、
戦後以来、そのままの形を保ち続け、
時代錯誤の組織になった司法。
そこに巣食う司法官僚。
そして、互助会のように司法官僚に寄り添う弁護士会という組織。
この数年、「司法制度改革」の名のもとに、改変が加えられたが、
残念だが、改善されたのは制度だけで、
その運用やそこに存する人たちの改革は全くなされていない。
結果的に、組織に巣食う司法官僚を増やしたに過ぎない。
さらに、弁護士の増員は盗人を増やしたに等しい。
嘘つきは弁護士の始まり
古来、「嘘つきは泥棒の始まり」と言ったが、
現在では「嘘つきは弁護士の始まり」である。
だいたい、嘘をつくことと物を盗ることとは違う概念だ。
現在の法律でも「詐欺罪」と「窃盗罪」と異なる。
ゆえに、「嘘つき」は泥棒ではなく詐欺師の始まりであり、
その行先には弁護士の始まりだといえる。
弁護士といえばステータスのある職業のように思われるが、
以前は「代言人」と呼ばれ、本人に代わって発言する者のことであった。
それは今も同じだ。
そして、市井のオバハンの口喧嘩と同じで勝たねばならない。
ゆえに、市井のオバハンと同等かそれ以上の嘘をつく才能が求められる。
弁護士などの法曹を育てる法学部では「justice(正義)のために」と教えるが、
実際、そのようなもののために正直にしていたのでは
食べていけないのが弁護士という職業だ。
裁判官とは異なり、誰も給与を保証してくれるわけではなく、
多くの弁護士が自営業であり、零細企業で雇用されている身分だからだ。
ゆえに、「justiceのために」などという戯言は法学部の学生のうちだけで、
弁護士になれば「嘘をつく才能」が求められる。
それは、政治家でも嘘がうまいのは
弁護士出身と決まっているというあたりにも如実に表れている。
癒着、天下りは公務員すべての病弊、当然、裁判官も
だが、裁判官がそんな弁護士の嘘に簡単にだまされるのだろうかと疑う人もいるだろう。
当然、騙されてばかりではない。
いや、多くは騙されているのではなく、騙されたふりをしているだけだ。
そこには、弁護士と裁判官の馴れ合いがあり、
ゆえに、弁護士会は裁判官と弁護士の互助会のようなものだといえるわけだ。
なぜなら、弁護士は自営業であるがゆえに「定年」はないが、
裁判官は公務員であるがゆえに「定年」がある。
ゆえに、定年後は年金がもらえるまで働かねばならない。
といっても、裁判所という上げ膳据え膳のぬるま湯に浸りきった
苦労知らずの老人の再就職先などはあまりない。
雇ってくれるのは大手の弁護士事務所くらいだ。要するに「天下り」だ。
そうなれば、現役のうちから大手の弁護士事務所に借りを作っておいたほうが
安全に天下って再就職ができるというものだ。
ゆえに、裁判官と弁護士の癒着はなくなるはずもない。
ゆえに、嘘だとわかっても騙されてやるのが世渡りのうまい裁判官ということになる。
刑事ドラマやサスペンスではよく法廷の場面が出るが、
テレビドラマと同じで、実際の法廷も双方が演技をしているに過ぎない。
同じ穴のムジナはどこでもムジナ
さらに、この国の司法制度も問題は、弁護士も裁判官も同じような道を歩んで
弁護士、裁判官になることにもある。
たとえば、司法試験の合格者の人数を大学などが発表しているが、
東大などを筆頭に同じ大学から多数の司法試験合格者が出る。
最近は、法科大学院などもできて、
一定の割合でそれ以外の大学からも司法試験合格者が出るが、
今のところ、
上位の国立大学と上位の一部私立大学が独占している状態は変わりそうにもない。
ここにも弊害がある。
弁護士と裁判官が同じ大学の卒業生であるなどということは日常的にありうる。
弁護士が裁判官の大学の先輩であることなどそれこそ実に多い。
年配の弁護士であれば、
どこの裁判所に行っても後輩がいるなんていうことも多い。
さならにいえば、同じゼミや研究室で同じ先生の薫陶を受けて、
同窓会や懇親会などで日常的に顔を合わしているなんてことも実に多い。
このような状況で、司法に「公正さ」や
「justice(正義)」を求めることが可能だと思われるだろうか。
必要なことは大きな制度改革
では、司法制度を改革にするにはどうすればいいのか。
必要なことは職業として弁護士、職業としての裁判官をなくすことだ。
現在、司法改革の一環として地裁だけだが、
裁判員制度が運用されている。
この「裁判員制度」は司法というものを
国民の手に取り戻すうえで重要な制度だといえる。
この制度を地裁だけではなく、
最高裁まで拡大し、刑事だけでなく民事にも拡大し、
裁判官を排した形でランダムに選ばれた裁判員によって
司法制度が運用されるようになれば、
今までのような癒着は生まれにくくなる。
当然、国民の負担は増えるわけだが、
死刑判決を出すような影響の大きな裁判から
金銭の貸し借りのような民事裁判までいろいろな問題を人生において
数度から十数度経験することは法律を身近なものとする点からも有意義であり、
社会で生きていくうえでの法律知識を身に着け、
法秩序を守るという意識を育成するうえでも、
必要な改革であると思う。
今まで、日本人は自国の法律についてあまりにも無知でありすぎた。
そして、それでもやっていけるような制度のもとで、
いい加減な癒着が蔓延した司法制度でも国民はそのことを知らずにいられた。
しかし、それでは健全な司法は生まれない。
さらに言えば、総選挙の際に最高裁判事の国民審査があるが、
残念だが、その制度が十分に機能しているとは思えない。
それに、最高裁判事だけでは無意味だ。
高裁、地裁、簡裁、家裁などが対象になっていないことは大きな欠陥である。
また、なにより、今まで一人も国民審査によって罷免された裁判官がいないことが、
機能不全であることの証左である。
そして、裁判官だけでなく、弁護士という職業も多数が不要だ。
なぜなら、刑事事件に関しては「検察」という組織があり、
被告の弁護をする必要性があるため、
ある一定の弁護士は必要がないとは言えない。
とはいえ、事実を確認するだけであれば、弁護士の必要性は低下するが。
さらに、現状のように単に裁判を引き延ばすことを専らとするような弁護士は
有害無益であるがゆえに淘汰されるべきであろう。
求められるのは検察の嘘を暴ける弁護士であり、嘘をつく弁護士ではない。
まして、民事には弁護士は必要ない。結果的に弁護士のつく嘘が事態を複雑にし、
容易に解決できる事案が裁判になることも多いからだ。
民事には調停という制度もある。この制度をさらに拡充させ、
それでも不調になるようであれば裁判を国民から選ばれた裁判員によって
「国民の常識」と「法律」という二つの物差しで解決すべきであろう。
少なくとも公務員となって死ぬまで人生が保障されているような、自堕落で
判決文を書かないで済むように
「訴訟取り下げ」という和解案ばかりを提示する裁判官は不要だ。
この国に必要な司法制度は
この国の司法に裁判官は不要である。
そして、弁護士も不要である。
ゆえに、島田紳助も、行列の出来る法律相談所も不要。
裁判官という非生産的で自堕落で、社会通念と経済観念の欠落した職種と、
弁護士という嘘をつくことに長けただけの公認詐欺師のような職種は不要。
必要なことは、国民の良識と法律に基づいて判断することであって、
裁判員制度の拡充と、調停制度の拡充、
そして、国民に「法に関する知識「と「遵法精神」を公教育において施すことだ。
『改革』という言葉が蔓延する我が国。
しかし、なぜか『司法改革』という言葉はあまり聞かれない。
三権のうち「立法」「行政」の改革は声高に叫ばれるのに。
改革の必要がないほど、日本の司法は健全な状態だろうか。
「立法」や「行政」がたびたびの「改革」という声に
少なからず「改革」がなされたの比して、
「司法」は「改革」からは無縁であっただけに
改革されるべき多くの点がいまだに置き去りにされ、
司法は過去の遺物と化している。
時代の変革に取り残され、
戦後以来、そのままの形を保ち続け、
時代錯誤の組織になった司法。
そこに巣食う司法官僚。
そして、互助会のように司法官僚に寄り添う弁護士会という組織。
この数年、「司法制度改革」の名のもとに、改変が加えられたが、
残念だが、改善されたのは制度だけで、
その運用やそこに存する人たちの改革は全くなされていない。
結果的に、組織に巣食う司法官僚を増やしたに過ぎない。
さらに、弁護士の増員は盗人を増やしたに等しい。
嘘つきは弁護士の始まり
古来、「嘘つきは泥棒の始まり」と言ったが、
現在では「嘘つきは弁護士の始まり」である。
だいたい、嘘をつくことと物を盗ることとは違う概念だ。
現在の法律でも「詐欺罪」と「窃盗罪」と異なる。
ゆえに、「嘘つき」は泥棒ではなく詐欺師の始まりであり、
その行先には弁護士の始まりだといえる。
弁護士といえばステータスのある職業のように思われるが、
以前は「代言人」と呼ばれ、本人に代わって発言する者のことであった。
それは今も同じだ。
そして、市井のオバハンの口喧嘩と同じで勝たねばならない。
ゆえに、市井のオバハンと同等かそれ以上の嘘をつく才能が求められる。
弁護士などの法曹を育てる法学部では「justice(正義)のために」と教えるが、
実際、そのようなもののために正直にしていたのでは
食べていけないのが弁護士という職業だ。
裁判官とは異なり、誰も給与を保証してくれるわけではなく、
多くの弁護士が自営業であり、零細企業で雇用されている身分だからだ。
ゆえに、「justiceのために」などという戯言は法学部の学生のうちだけで、
弁護士になれば「嘘をつく才能」が求められる。
それは、政治家でも嘘がうまいのは
弁護士出身と決まっているというあたりにも如実に表れている。
癒着、天下りは公務員すべての病弊、当然、裁判官も
だが、裁判官がそんな弁護士の嘘に簡単にだまされるのだろうかと疑う人もいるだろう。
当然、騙されてばかりではない。
いや、多くは騙されているのではなく、騙されたふりをしているだけだ。
そこには、弁護士と裁判官の馴れ合いがあり、
ゆえに、弁護士会は裁判官と弁護士の互助会のようなものだといえるわけだ。
なぜなら、弁護士は自営業であるがゆえに「定年」はないが、
裁判官は公務員であるがゆえに「定年」がある。
ゆえに、定年後は年金がもらえるまで働かねばならない。
といっても、裁判所という上げ膳据え膳のぬるま湯に浸りきった
苦労知らずの老人の再就職先などはあまりない。
雇ってくれるのは大手の弁護士事務所くらいだ。要するに「天下り」だ。
そうなれば、現役のうちから大手の弁護士事務所に借りを作っておいたほうが
安全に天下って再就職ができるというものだ。
ゆえに、裁判官と弁護士の癒着はなくなるはずもない。
ゆえに、嘘だとわかっても騙されてやるのが世渡りのうまい裁判官ということになる。
刑事ドラマやサスペンスではよく法廷の場面が出るが、
テレビドラマと同じで、実際の法廷も双方が演技をしているに過ぎない。
同じ穴のムジナはどこでもムジナ
さらに、この国の司法制度も問題は、弁護士も裁判官も同じような道を歩んで
弁護士、裁判官になることにもある。
たとえば、司法試験の合格者の人数を大学などが発表しているが、
東大などを筆頭に同じ大学から多数の司法試験合格者が出る。
最近は、法科大学院などもできて、
一定の割合でそれ以外の大学からも司法試験合格者が出るが、
今のところ、
上位の国立大学と上位の一部私立大学が独占している状態は変わりそうにもない。
ここにも弊害がある。
弁護士と裁判官が同じ大学の卒業生であるなどということは日常的にありうる。
弁護士が裁判官の大学の先輩であることなどそれこそ実に多い。
年配の弁護士であれば、
どこの裁判所に行っても後輩がいるなんていうことも多い。
さならにいえば、同じゼミや研究室で同じ先生の薫陶を受けて、
同窓会や懇親会などで日常的に顔を合わしているなんてことも実に多い。
このような状況で、司法に「公正さ」や
「justice(正義)」を求めることが可能だと思われるだろうか。
必要なことは大きな制度改革
では、司法制度を改革にするにはどうすればいいのか。
必要なことは職業として弁護士、職業としての裁判官をなくすことだ。
現在、司法改革の一環として地裁だけだが、
裁判員制度が運用されている。
この「裁判員制度」は司法というものを
国民の手に取り戻すうえで重要な制度だといえる。
この制度を地裁だけではなく、
最高裁まで拡大し、刑事だけでなく民事にも拡大し、
裁判官を排した形でランダムに選ばれた裁判員によって
司法制度が運用されるようになれば、
今までのような癒着は生まれにくくなる。
当然、国民の負担は増えるわけだが、
死刑判決を出すような影響の大きな裁判から
金銭の貸し借りのような民事裁判までいろいろな問題を人生において
数度から十数度経験することは法律を身近なものとする点からも有意義であり、
社会で生きていくうえでの法律知識を身に着け、
法秩序を守るという意識を育成するうえでも、
必要な改革であると思う。
今まで、日本人は自国の法律についてあまりにも無知でありすぎた。
そして、それでもやっていけるような制度のもとで、
いい加減な癒着が蔓延した司法制度でも国民はそのことを知らずにいられた。
しかし、それでは健全な司法は生まれない。
さらに言えば、総選挙の際に最高裁判事の国民審査があるが、
残念だが、その制度が十分に機能しているとは思えない。
それに、最高裁判事だけでは無意味だ。
高裁、地裁、簡裁、家裁などが対象になっていないことは大きな欠陥である。
また、なにより、今まで一人も国民審査によって罷免された裁判官がいないことが、
機能不全であることの証左である。
そして、裁判官だけでなく、弁護士という職業も多数が不要だ。
なぜなら、刑事事件に関しては「検察」という組織があり、
被告の弁護をする必要性があるため、
ある一定の弁護士は必要がないとは言えない。
とはいえ、事実を確認するだけであれば、弁護士の必要性は低下するが。
さらに、現状のように単に裁判を引き延ばすことを専らとするような弁護士は
有害無益であるがゆえに淘汰されるべきであろう。
求められるのは検察の嘘を暴ける弁護士であり、嘘をつく弁護士ではない。
まして、民事には弁護士は必要ない。結果的に弁護士のつく嘘が事態を複雑にし、
容易に解決できる事案が裁判になることも多いからだ。
民事には調停という制度もある。この制度をさらに拡充させ、
それでも不調になるようであれば裁判を国民から選ばれた裁判員によって
「国民の常識」と「法律」という二つの物差しで解決すべきであろう。
少なくとも公務員となって死ぬまで人生が保障されているような、自堕落で
判決文を書かないで済むように
「訴訟取り下げ」という和解案ばかりを提示する裁判官は不要だ。
この国に必要な司法制度は
この国の司法に裁判官は不要である。
そして、弁護士も不要である。
ゆえに、島田紳助も、行列の出来る法律相談所も不要。
裁判官という非生産的で自堕落で、社会通念と経済観念の欠落した職種と、
弁護士という嘘をつくことに長けただけの公認詐欺師のような職種は不要。
必要なことは、国民の良識と法律に基づいて判断することであって、
裁判員制度の拡充と、調停制度の拡充、
そして、国民に「法に関する知識「と「遵法精神」を公教育において施すことだ。
復興と絆
戦後、日本は急速に経済的に復興すると共に多くのものを失った。
たとえば、戦後、「家制度」の解体こそが「個」の存立には不可欠とされ、それが「民主主義」の根幹だとされたことなども一例だ。
結果、核家族化が進み、「家」そして、「地域」という連帯、絆は引き裂かれ、核家族化した小さな家族の中でさえ、家族が「すれ違い」「会話を失い」、そして孤立していった。
昔、核家族化が進んだ頃、松尾芭蕉の「秋深き隣は何をする人ぞ」を引用して「隣は何をする人ぞ」という言葉で家族の孤立化が表現されたが、今は、「隣」は「隣」でも「家」ではなく「部屋」になり、家族ですら、家族が何をしているかわからないという状況になっている。
ひきこもる人が問題になった時期もあったが、今はそれを通り越し、家族による家族に対する虐待を知らない家族がいる時代になった。
家族の絆が崩壊し、地域のコミュニティも崩壊し、リアルではないネットという世界につながりを求める人が増えている現代。
しかし、大震災を機に都市部では絶滅した「絆」というものが「東北」という大地に残存されていた「絆」を知り、その再評価が始まった。
だが、一度、失われたものは容易には復活させることはできない。「自由」という大義のもとに手に入れた「身勝手」という我儘。
育てられたという恩を忘れ、一人で大きくなったかのように振舞う大人たち。それを見て、同じように成長する忘恩の徒たち。戦前、重視された「忠孝」という道徳を「軍国主義的」と批判し、それを叩き壊すことが日本の復興に必要だとされた戦後。
だが、この大震災を経た「災後」、この国を復興させるのに必要なものは戦後、捨て去った「忠孝」という道徳、そして、なにより、「絆」というものである。
震災で「東北」の大地で現わされた「絆」というものの大いなる力。これを「日本全体」で共有し、日本人が「絆」で一つになれば、この国を覆う閉塞感を打破できるのではないか。
当然、そのような動きを「反動」「全体主義的」「帝国主義的」「軍国主義への回帰」と批判する勢力は小さくはなく、抵抗もあるだろうが、それを排して、この国の精神的、経済的な復興を果たさなくてはならない。
たとえば、戦後、「家制度」の解体こそが「個」の存立には不可欠とされ、それが「民主主義」の根幹だとされたことなども一例だ。
結果、核家族化が進み、「家」そして、「地域」という連帯、絆は引き裂かれ、核家族化した小さな家族の中でさえ、家族が「すれ違い」「会話を失い」、そして孤立していった。
昔、核家族化が進んだ頃、松尾芭蕉の「秋深き隣は何をする人ぞ」を引用して「隣は何をする人ぞ」という言葉で家族の孤立化が表現されたが、今は、「隣」は「隣」でも「家」ではなく「部屋」になり、家族ですら、家族が何をしているかわからないという状況になっている。
ひきこもる人が問題になった時期もあったが、今はそれを通り越し、家族による家族に対する虐待を知らない家族がいる時代になった。
家族の絆が崩壊し、地域のコミュニティも崩壊し、リアルではないネットという世界につながりを求める人が増えている現代。
しかし、大震災を機に都市部では絶滅した「絆」というものが「東北」という大地に残存されていた「絆」を知り、その再評価が始まった。
だが、一度、失われたものは容易には復活させることはできない。「自由」という大義のもとに手に入れた「身勝手」という我儘。
育てられたという恩を忘れ、一人で大きくなったかのように振舞う大人たち。それを見て、同じように成長する忘恩の徒たち。戦前、重視された「忠孝」という道徳を「軍国主義的」と批判し、それを叩き壊すことが日本の復興に必要だとされた戦後。
だが、この大震災を経た「災後」、この国を復興させるのに必要なものは戦後、捨て去った「忠孝」という道徳、そして、なにより、「絆」というものである。
震災で「東北」の大地で現わされた「絆」というものの大いなる力。これを「日本全体」で共有し、日本人が「絆」で一つになれば、この国を覆う閉塞感を打破できるのではないか。
当然、そのような動きを「反動」「全体主義的」「帝国主義的」「軍国主義への回帰」と批判する勢力は小さくはなく、抵抗もあるだろうが、それを排して、この国の精神的、経済的な復興を果たさなくてはならない。
前の2件 | -






